阿波踊りの歴史
はじめに
阿波踊りは夏の終りを告げる徳島で、多くの観光客を迎えて市中が踊り一色に彩られるという大イベントとして知られています。
このイベントが巨大化するにつれて、衣裳が派手になったり、さまざまな工夫も見られるようになってきました。
それは一定の評価をすべきだと思うのですが、踊りの伝統や精神については次第に忘却の度を深めているように見受けられます。
そんな伝統や精神を取り戻すためには、どうしても阿波踊りの正しい歴史を学習することが必要だと思い、阿波踊りの歴史をまとめてみました。
●阿波踊りの起源と発生
まだ、阿波踊りは盆踊りとよばれていた時代の歴史です。
阿波踊りの原型となる、ぞめき踊り、組踊り、俄(にわか)踊りは、それぞれ芸態を異にするだけでなく、その発生の背景も相違しています。
もともと本流とされる踊りがあって、そこから派生するというようなものではなく、まったく異質の踊りが、それぞれ個性を発揮しながら盆の市中に混然と覇を競っていたというのが、18世紀以降における近世城下の盆踊りであるということを、正しく認識して下されば幸いです。
起源と発生
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文化・文政期
阿波では藍玉の全国市場への進出が著しくなります。
当然のように城下における経済活動も活況を呈するようになり、阿波踊りの起源となる盆踊りに加わる町人たちも急増しました。
踊りの輪が大きくなると、辻や空地では踊れなくなり、往還道にくり出して踊りすすむ練行型の踊りに変化してく様になりました。 それにより今日の阿波踊りによく似た踊りが形づくられていくこととなりました。
以上のことから練行型に変化したぞめき踊りは、今日に至るまで大規模化の一途を辿っています。 -
ぞめき踊りの発生
このタイプの踊りとして、いまも踊られているのは津田(徳島市)の盆踊りです。
津田では漁師やその家族たちが海岸に集い、迎え火を焚いて新仏の名を海に向かって呼ばわり、仏とともに踊るというものが起源と言われています。
現在のぞめき踊りは進化して起源の考え方を残しつつ、また違ったものになっています。 -
組踊りの発生
ぞめき踊りに対して、最初から大規模の踊りとして華麗さを誇っていたのが組踊りです。
組踊りというのは100から120人ほどの大規模な踊りで、華美な舞台で小人数で演じるメインの踊り(中踊り)と、その回りを多数の踊り子が回り踊りで景気づけるほか、踊りを乱されることがないように警固役を配していました。
この踊りは本来華麗な衣裳や持物で観衆の眼をひきつけ、幻想の世界に人びとを誘うことを狙った贅をつくした踊りでした。 -
俄(にわか)踊りの発生
18世紀になると徳島城下では、藍商をはじめとする新興商人の進出が顕著となりました。
経済変動を背景として、組踊りが徐々に減少していったのに反して、新興商人によって俄踊りが盛り上げられ、盆踊りの3日間の賑わいを大きく支えていくようになりました。
俄踊りというのは阿波特有の芸能ではなく、上方をはじめ諸国で盛んに流行していた民衆芸能です。
俄芸のことを衣裳俄と称し、盆踊りで賑わう市中で、見物人の集まっているところに出向いて寸劇を披露しました。 この衣裳俄は富商でなくては演じることができませんでした。
しかし、豪華な衣裳を纒うことなどできなかった下層の町人たちは、浴衣で目隠しをして落語の小咄や声色、風刺劇や手品などによって市中の人びとから拍手喝采を得ながら、城下狭しと走り演じました。
そのためこのような俄芸のことを走り俄と言う様になりました。 -
天正6年(1578)
福島玄清の『三好記』に詳述。
盂蘭盆(うらぼん)には、時の城主十河存保は京都から風流の芸能集団を招いて、勝瑞(しょうずい)城内で演じさせ、だれにも観覧することを許しました。
当時の阿波に風流熱が高揚していたことを知ることができます。 -
天正13年(1585)
蜂須賀家政が阿波入部を果たしました。
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天正14年(1586)
現在の徳島中央公園に城を完成させました。
それを祝って乱舞したのが始まりといわれています。 -
慶安3年(1650)
『春日祭記』より
町人たちを中心に、風流踊りを復活して各町が組踊りをくり出して競演するようになりました。 -
明暦3年(1657)
徳島城下の盆踊りに対する藩の規制が始まります。
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寛文11年(1671)
藩による徳島城下の盆踊に対する規制の強化が始めました。
触書にて次のような3項目を示しました。
1)盆踊りは7月14日から16日までの3日間に限ること。
2)家中は盆の3日間の外出を禁じられ、どうしても踊りたければ門を閉ざした屋敷内で踊ること。
3)諸寺院に踊り込むことを厳禁する。 -
貞享2年(1685)
触書にて見物人に対する細かい取締りを行いました。
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宝暦4年(1754)
増税をめざし、領民に質素倹約を押し付けられ、組踊りが禁じられました。
それでも、城下周辺の各所では密かに組踊りが演じられていたと言われてます。盆踊りは規制を受けるたびに不死鳥のように甦って踊り続けられました。
楽しい盆踊りを衰退させることがないように、一部に抵抗の動きがあったと伝えられています。 -
慶応3年(1867)
翌4年にかけて阿波一円は「ええじゃないか」で浮き立つことになります。
徳島城下では群衆が「ええじゃないか、ええじゃないか、何でもええじゃないか……」と囃しながら勢見の金刀比羅神社に練行し、そこから讃岐の金刀比羅宮や施行の船に乗り込んで伊勢神宮に向う人も多かった様です。 -
文政13年(1830)
御蔭詣(おかげもうで)では徳島城下から始まり、阿波衆は伊勢で「踊るも阿呆なら見るのも阿呆じゃ、どうせ阿呆なら踊らんせ」と囃して踊り狂いました。
この踊りがおもしろいというので大流行し、上方の豊年踊りに転化したとされます。
もう一つ、「ええじゃないか」は豊年踊りをモデルとしたというのもよく知られる有力な説です。
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●戦後の阿波踊りの歴史と発展
阿波踊りの名前と特徴が定着してきた時代の歴史です。
庶民の暮らしは豊かになり、 さまざまな文化や思想が花開きました。
阿波踊りも時代を反映するかのように 自由でユニークなスタイルのものが多くみられるようになりました。
戦後の歴史と発展
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明治3年(1870)
庚午事変の発生により、阿波踊りが中止されます。
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明治38年(1905)
日清・日露戦争終結。
徳島では「祝勝阿波踊り」が開かれ、誰もが戦勝ムードに酔いしれました。
戦争を期に、このころからお盆以外でも景気づけやお祝いの度ごとに 阿波踊りは開催されるようになったのです。 -
明治40年(1907)
お鯉さん生誕。
庶民の暮らしは豊かになり、 さまざまな文化や思想が花開きました。
阿波踊りも時代を反映するかのように 自由でユニークなスタイルのものが多くみられるようになりました。
大正時代阿波踊りをリードしていたのは なんといっても花柳界、富町や内町の芸子衆でした。 当時と変わらぬ阿波踊りの調べを歌い続けていた1人の女性がいました。
多田小餘綾(ただ・こゆるぎ)さん(1907年4月27日 - 2008年4月6日) お鯉さんの名で知られる多田さんは14のころから芸妓として花街で活躍していました。
多田さんが唄う「よしこの」は100年を経た今も、聞く人の心をとらえます。 -
大正4年(1915)
大正天皇の即位を記念し、徳島市の西新町で行われました。
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大正7年(1918)
米騒動により、阿波踊り中止。
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昭和12年(1937)
満州で盧溝橋事件(ろこうきょう)事件が勃発。
阿波踊りはこの年から中止されました。
街にあふれた「ぞめき」の音色は、銃声にかき消されてしまいました。 -
昭和16年4月(1941)
阿波踊りが復活しました。
東宝映画「阿波の踊り子」のロケが徳島市内で行われたのです。 -
昭和16年12月(1941)
日本はアメリカとイギリスに宣戦を布告、太平洋戦争が始まりました。
日本軍は序盤戦果をあげました。 -
昭和17年(1942)
阿波踊りが再開されたものの戦況が悪化するや、たちまち中止となりました。
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昭和20年(1945)
終戦。
徳島の街は一夜にして灰と化し人々は最愛の肉親や兄弟、妻や子を失いました。
住む家も食べる物もなく、誰もが生きることに精一杯でした。 -
昭和22年8月(1947)
焼け跡にぞめきのリズムが響きわたりました。
あり合わせのみすぼらしい衣装、着物がない踊り子は、裸の体に鍋の炭を塗りました。
しかしどの顔にも平和な時代を迎えた喜びが満ちあふれていました。 -
昭和24年(1949)
戦災からの復興を願う阿波踊りが徳島駅前広場で開催されました。
にぎやかで躍動感いっぱいの阿波踊りは徳島の復興のシンボルとして人々の圧倒的な支持を受けました。
徳島市内では新しい建物や道路が次々と建設されて行きました。
戦災の爪痕は次第に消え、誰もが復興をなしとげた事を確信しました。 -
昭和34年(1959)
この時代の女踊りは現在とかなり違っています。
両手を肩の高さで上下させ、指先もだらりと下を向いています。 -
昭和40年(1965)
この後、現在のような高く両腕を突き上げるフォームへと変化して行きました。
このように変化を遂げていったのには理由がありました。
それは、年々大型化していった「桟敷」の存在です。 -
「参加する踊りから見せる踊りへ」
桟敷の出現で客の目線が上から下へ、手がだんだんと上へ上がる、見てくれのいい踊り、時流をつかう踊り…
伝統の踊りを保存するというよりも踊りを振興させる意識が強い現れです。
見られることを計算した阿波踊りは工夫を凝らした演出やユニークな踊り手たちが観客の目を楽しませました。 -
昭和42年(1967)
始めて海外へ進出し、ハワイのホノルル市で乱舞を見せました。
この様子は衛星中継で全国に放送され阿波踊りは日本はもとより海外からもひっぱりだこの人気となりました。 -
昭和45年(1979)
大阪万国博覧会をはじめとする各地の博覧会に出演して
積極的にPRを行いました。 -
平成20年(2008)
4月6日、お鯉さん逝去。
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終わりに
阿波踊り起源の説から考えてみると、阿波では得意の阿波踊りで「ええじゃないか」を踊ったのはごく自然なことでした。
ただそれまでの阿波踊りは、人形浄瑠璃の太棹が鳴り物の主力を占めていたといわれるように、若干テンポの緩やかな踊りであったのに対して、テンポの早い「ええじゃないか」の大流行を契機として、阿波踊りもテンポを速め、鳴り物の主役も細棹に取り替えられていったというのも、かなり多くの人たちの主張です。
その真偽について実証することはできないことですが、阿波踊りを知るにあたり興味深い課題の一つです
踊りと同時に連の編成も変わっていきました。
戦前には20人程度だった連は戦後次第に大型化し、最大で100人規模に膨れ上がりました。
鳴り物は三味線などの弦楽器から鐘、太鼓といった打楽器中心の編成となりました。
大音量、大編成、そして一糸乱れぬ組織力、これが現在の阿波踊りの主流となりました。
時代とともにその姿を変えていった阿波踊り。
しかし阿波踊りはいつも庶民とともにありました。
人々が感じる喜びや悲しみ、さらには憎しみや怒りまでもが、その原動力となって阿波踊りは今に生きています。
阿波踊りの400年。
それは時代をたくましく生きた庶民の歴史でした。